トビラノのブログ

日記を毎日更新しています

鳴き声みたいなもの - 2021年6月17日の日記

 

朝、犬が散歩から帰ってきて疲れて寝てるあいだに大豆田とわ子を最後まで見た。

 

以下、ネタバレなので未視聴の方は飛ばしてください。

 

 

とわ子が元夫たちを邪険に扱ったり好きって言ったりするのが全然理解できなくて終盤の展開に混乱した。「元夫たちを好きじゃないなら何で小鳥遊さんについていかないの???嫌いじゃないなら何で鬱陶しそうに避けたりするの???なんで???」と頭の中クエスチョンマークでいっぱいになった。言葉にしてみるといかにも子供が言いそうな疑問だ。でも、その気持ちが分かるようになるのが大人になるということなら私は一生子供でいい。というか子供の方がいい。

まあアレだろうな、元夫たちの小競り合いがとわ子には小鳥のさえずりのように聞こえるという演出があったけど、とわ子が元夫たちに矛盾した態度や発言をするのもある意味さえずりのようなものなんだろう。日常会話の言葉一つひとつが全て言葉通りの意味を持つのではない。千葉雅也が以前、年寄が子や孫に向かって結婚式に出たいとか言うのは言葉として意味を成さない、鳴き声みたいなものだから気にしなくていいと一蹴していて(元ツイート)、すごく心が軽くなった気がしたけど、方向性は違えどとわ子たちの場合も多かれ少なかれそういう側面があるように思う。そんなこと言ったら「鳴き声ではない言葉とは何なのか」、「『話すこと』とは何なのか」という別の疑問も浮かんでくるけど、それは今は考えない。

子供の方がいい、ということに関して、大人になるまであと100年掛かるとか会社員できなかったとか男と女が煩わしいとかいう発言を繰り返していた渡来かごめには心の底から共感、かつ応援していたので、なんの前触れもなく突然死んでしまってショックだった。いや、人間の死なんて前触れがなくて当たり前だけど、ドラマでそれをやられるとは。かごめが死んだ後の八作ととわ子のやり取りがリアルで辛かった。

小鳥遊が非言語的な言語を多用してひねり出した「5歳の頃のかごめが笑っていた時間があったなら、今もかごめは笑っている」という時間論には、私が最近考えていたことをピシャリと言い当てられた感じがしてスッとした。結局とわ子は小鳥遊と一緒にマレーシアへ行く道を選ばなかったけど、それが正解みたいに視聴者が思ってしまうのは嫌だな〜。公式がifの世界線をいくつも用意していることからも分かるように、このドラマは、とわ子の選んだ道はただとわ子の選んだ道である以外の意味を持たないように演出されている。小鳥遊の時間論もその延長。だから私は、『まめ夫』に高評価を送ると同時に、とわ子は小鳥遊さんと一緒になったらよかったのに!と一生恨み続けるし(オダギリジョーだからではない)、だからこそとわ子が選んだラストシーンは尊い、のかもしれない。

 

■ネタバレおわり

 

昨日の晩から一日中この曲をリピート再生してる。

open.spotify.com

 

髙城くんこんなスウィートでソウルな歌い方できたんだ、という驚きがまずあって、何回も聴いてるうちにハーモニーがいいなと気づき(モーダル、と言うんだろうか)、歌詞もエエやんと思ってこれしか聴けなくなった。ある曲を好きになると何回も何回も同じ曲ばっかり聴いてしまうのが私の癖だ。「抜け出せこんなコロナ禍な世の中も」って、今日本国民全員が歌いたいリリックでしょ。

 

A♭△7(9)|Cm7|B△7/D♭|B△7/E♭ D♭

 

この曲はおそらくこんな感じのコードが繰り返されている。正しい表記はよくわからないけど構成音は合ってるはず。2小節目まではKey=A♭で、3小節目からはKey=G♭、最後のD♭はⅤ(Key=G♭)でもありⅣ(Key=A♭)でもあり、2つのキーのつなぎ的な役割を果たしてるんだと思うけど、Cm7→B△7/D♭にはどういう理屈で飛べるのか分からん。丸サ進行でお馴染みのJust The Two Of Usの間奏にも同じ展開があるけど、「"Just The Two Of Us" コード進行」で調べても丸サ進行のことしか出てこないから調べようがない。地道に本を読むしかないのか。ダンスミュージック好きなのにモードのこと全然わからないのが痛い。

 

夕飯後、ボ・ガンボスの『HOT HOT GUMBO '92』というライブ映像を見た。派手なトラックの上に派手なステージを作って派手な格好で演奏しながら京都市内を練り回り、そのまま京都大学西部講堂に到着してトラックの上で演奏を続行、休憩挟んで西部講堂前の大きなステージに移動して虹色の風車が回る前で大絶叫の大熱唱、夢より奇想天外なお祭りライブ。サイケな装飾を施した派手派手なトラックの上で演奏しながら公道をゆっくり走り、後ろから客がぞろぞろついてくる様子がかなり面白い。夕暮れ時の「あこがれの地へ」合唱はジーンときた。

どんとがMCで「どんと王国を作りました、自由な国です!僕が王様です!!」と宣言していて、うわ、坂口恭平だ!と思ったけど時代的に(あとサイケデリックな格好からも)ジョン・レノンのヌートピアの影響が大きかったのかもしれない。どっちにしろ私が惹かれる天才肌の人は国を作りたがる傾向にあるんだな。好きなタイプは?と聞かれたら「建国する人」と答えよう(そんな質問はするなという意味)。

 

夜、犬がソワソワしていたので公園に連れて行ったらすぐウンチした。この子まさか、朝夕2回の散歩では物足りず、夜までウンチを我慢すれば3回目の散歩に行けると思ってるんじゃないだろうか。まあ、ウンチ我慢してまでして夜の散歩に行きたいなら、行くけどさ、、、ウンチを我慢することでコミュニケーションが取れてるなら凄いことだ。

 

 

 

魅力バトル - 2021年6月16日の日記

 

恋愛ドラマを見てむず痒いようなもどかしいような気持ちになるのってすごいマゾヒスティックな愉しみ方なんじゃないかと思えてきた。

恋愛には、交際相手のことは好きでいなければいけない、交際には明確な始まりと終わりがある、1対1で交際しなければいけないなどの根拠のないルールが数え切れないほどたくさんある。恋に悩み振り回されるすべての人間はそうした無用なルールの網にわざわざ自分から絡まりにいって苦しんでいるようにさえ見える。「楽しいだけが恋じゃないよね」という一つの幻想にしがみついて恋の楽しさをわざと我慢しているような。人はなぜ揺り戻しも代償もなくただ楽しいだけのことを恐れてしまうのか。ただ楽しいだけでいいじゃん。楽しいだけの恋を恐れるな!!!

 

と言いつつ今日は『大豆田とわ子と三人の元夫』を楽しく見ていた。配信で前半を見終わったところ。これはどんなドラマかと言うと、登場人物も視聴者もみ〜んな松たか子さんのことを大好きになるドラマです。以上! 演者が歌うEDが素晴らしく、この曲に思い入れを持つためにドラマを見ていると言っても過言ではない。

https://youtu.be/-R2I3yMiz3k

バージョン違いでいくつかリリースされており、Presence Ⅲでは二人目の元夫役の東京03の角田がラップしてる。初めて聴いたときMC角田が入ってきた瞬間「ヒプノシスマイク!!??」と思った。第一声が山田一郎に似てる。

特にストーリーに関わるネタバレではないので遠慮なく書きますが、後半でオダギリジョーが出てきます。普段、好きな俳優とか聞かれても思いつかなくて返事に詰まってしまうけど、映画やドラマでオダギリジョーを見かけるたび「そういえば私はオダギリジョーが好きなんだった」と思い出す。オダギリジョーが喋ると場の空気がオダギリジョーを中心に流れ始めるのですごい。

そして主演の松たか子も周りの空気を自分のほうに引きつける(惹きつける)魅力を持った人なので、松たか子オダギリジョーが会話するシーンでは魅力と魅力がぶつかり合って次元が歪んでいるのかと思うくらい画面がすごいことになっている。これを言葉で伝える能力は私にはないので松vs.オダギリの魅力バトルが気になる方はぜひ本編をご覧ください。

 

『まめ夫』見終わってから、犬がめちゃくちゃ吠えるので夜の散歩に連れて行った。公園でウンチしたら落ち着いた。誰も見てないから、スマホのスピーカーでPresenceを流し、それをポケットにつっこんで一人で踊りながら歩いた。極上の幸せだった。

 

キラキラの死生観 - 2021年6月15日の日記

 

徒然草読み進めています。めっちゃくちゃ面白い。

いろんなエピソードや考えたことを思いつくままに列挙していくスタイルで書かれていて、そうやって書かれた全部で243個の短い文章をまとめた本なんだけど、読んでみると国語の授業で習ったときと全然印象が違う。

私の場合、授業で習ったのは、弓道の修練において初心者は二本の矢を持ってはならないと説いたある師匠の話(第九十二段【一本の矢】)や、木登りの名人が「飛び降りても平気な高さになったときに一番用心しないといけない」と言った話(第百九段【過ちを犯すとき】)などが印象深い。たしかにこれも面白いっていうか、感心する話だけど、どこか説教臭くて取っつきにくい。それよりもっと核心に迫った面白いイズムが徒然草にはたくさん書かれている。

たとえば、

「(前略)迷っている者はこれ(老いと死)を恐れることがないが、それは名利におぼれて、死期の近いことをかえりみないからである。(中略)愚かな人はまた、人生が短いことを悲しむが、それは人生を永遠のものにしたいと考えて、生成変化する自然の摂理を知らないからである。」(第七十四段【何を追い何を待つ】より抜粋)

これは坂口恭平奥田民生やどんとが自分の死後のことについて朗らかに歌うことと繋がっているし、

「一刻といえども惜しむ心を持たない場合には、人は死人と同じである。」(第百八段【一刻を惜しむ】より抜粋)

これは『命売ります』にて、サラリーマン時代の方が「はるかに死んでいた」と表現した三島由紀夫と寸分違わず同じことを言ってる。

こういう、一分一秒が輝くようなキラキラの死生観を紹介した方が、前述の説教臭いエピソードを二、三並べるよりはるかに面白いのに!こっちの方が現代にも通用するテーマだし!!どう考えてもこの死生観が徒然草の核となっており、この観点を抜きにして徒然草を説明することはできないと思うのですが、意図的にしろ分かってないにしろ、その大事な部分を紹介しないままやり過ごしてしまうあたり、やっぱ国語の授業って恐ろしくつまんなかったんだなと思った。

 

 

1週間ぐらい前から、はてなブログと併せてnoteにも日記を公開している。はてなブログでも稀にfavをくれたり読者になってくれる方がいるけど、noteのほうが知らない人からの反応が多い傾向にある。noteはサービス内でユーザー同士のコミュニケーションが生じやすいような空気がある。なんとなく。

もともとSNSの魔力に取り憑かれやすいタイプなので今のうちに明らかにしておきたいのだが、私は「いいね」でパッケージされることを期待して日記を書いてるのではない。

 

私なりのアンサー - 2021年6月14日の日記

 

昨日は過去イチの片頭痛に見舞われ、昼からずっと横になっていた。頭が痛すぎて泣くという未曾有の体験をした。おかげで日記を書くどころではなかった。光は眩しく、音は突き刺さるように痛く、思考することが苦痛だった。群発頭痛の痛みに耐え切れず衝動的に拳銃自殺したというどこかの外国人に思いを馳せた。

鎮痛剤飲んで一晩寝たらすっかり治りました。スマホを見れる、ご飯を食べられる、おしゃべりができる!この上なく幸せだ。

 

 

最近自分の音楽ルーツについて考えたときに、キャロル・キングは大学生になってから知ったにも関わらず小さい頃から聴き続けていたみたいに耳馴染みがよく、色んなミュージシャンを介して知らないうちにこういう(ブルー・アイド・ソウルというのか)音楽の空気を吸ってたんだなと思った。ピアノ弾き語りだし、私が大好きな要素が詰まっている。

 

キャロル・キングといえば必ず思い出すのが、去年死んだ後輩のことで、部活の旅行で泊まった温泉宿のロビーでTapestry流してみんなで「いいね〜」と言い合ったこととか、未だに残ってるLINEアカウントのLINE MUSICはキャロル・キングのYou've Got a Friendが設定されてるし、とにかくキャロル・キングを聴くと後輩を思い出さずにはいられない。後輩といっても学年が一つ違うだけで年は同じだけど、一切タメ口を聞くことなく先輩として慕ってくれていた。

 

 

ここからは、全部「個人の感想」なので、目くじら立てずに話半分で読んでほしいのですが。

彼が死にたがっていたとき、私もまた死にたがっていたし、彼がさらっと希死念慮を口にしたとき本気で向き合わずに的外れな否定の言葉しか口にできなかったのは私も同じことを考えていたからだった。彼が苦しんでいたことには色々な理由があったろうし、これは本当にただの私の独りよがりかもしれないということは強調したいが、彼は根底で「まとも」な人生を送れないことをずっと気に病んでいたように見えた。少なくとも私には。最後に飲み会で話したときも「自然の摂理」とか「自然淘汰」とか、言ってた。もちろん程度の違いはあるだろうけど、「まとも」でいられないことへの果てしない劣等感、私もごく最近まで持っていたから彼が生前に度々そういうことを口にしたときいつも「わかるわ〜」としか言えなかった。

彼が死んだとき何人かの友人は「仕方ない」とか「彼の選択は尊重する」とか言っていた。それも優しさなのかもしれないが、こと私にとっては彼の死を仕方ないと思ってしまうことは自分が死ぬことと全く同じだったから、自分が生きるために、彼が死なずに生きるにはどういう道があり得たかを想像しなければならなかった。まさにこの私が生きるために。

生きるために、「まとも」に生きなければならないというテーゼを破り棄てる必要があった。

 

『資本主義リアリズム』著者マーク・フィッシャーは、自身も鬱に苦しみながらそれでも抑鬱は個人のメンタルヘルスに留まる問題ではないと強く主張していた(その彼も自殺してしまった)。この悔しさは筆舌に尽くしがたいがやはり、自殺は社会問題であると、認めなければならない。

「留年するやつはダメ人間」「就職しないやつはダメ人間」「人に頼って生きるやつはダメ人間」「役に立たないやつはダメ人間」(=生きる価値がない)という無言の圧力を軽く受け流し、ふらふら好き勝手に、いろんな約束を破りながらわがままに生きること。かつて訳もなく縋り付いていた「まとも」のルートを外れたまま、今朗らかに生きていることが、彼に対する私なりのアンサーである。

 

 

youtu.be

 

論理の鎖 - 2021年6月13日の日記

 

夜勤終わったその足で友達の家に行ってDTM作業、ちょっと宅録
作曲でもやはり、これこれこんなことをしようと頭で考えるより、リラックスして身体が気持ちいいような音が自然に出てくるときの方が、いい感じに進む。やはり、だ。
自分のPCがスペック低いせいで毎回DTM借りるために友達の家に行くのが面倒くさくなってきたから早く買い替えたい。

 

家に帰ったらどっと疲れが押し寄せてきて、1時間ほど昼寝するつもりが3時間以上寝てしまった。家族が何度か起こしてくれたみたいだけど全く気づかなかった。父に声をかけられる夢を見たが、たぶん夢じゃなかったんだ。

 

徒然草にならって、ものぐるほしゾーンに入るために心に浮かんだことをとりとめもなくそのまま書くようにすると、接続詞が減ることに気づいた。接続詞は頭で考えてるときに出てくる、というか接続詞を使うと文章は「頭」になってしまう。心に浮かんだままの文章には「しかし」「すなわち」「なぜなら」が出てこない。心には論理がないということだ。今までいかに論理に支配され縛られてきたことか。論理の鎖から心を解放せよ!

 

フーコーの狂気の歴史、買ってしまった。税別6500円。この本デカいし重いし高いし、図書館で借りることもできたんだけど、図書館で借りると「近いうちに返さなければいけない」とゆー重力が加わって、ページが重くなるので、なるべく自分で所有しておきたい。欲しいときに欲しい本を手に入れ、代わりに読んでない本や読み返すことのなさそうな本はバンバン売ろう。積読を気にしない。
この調子だと今一番欲しい本ことゾミアも買うことになる。1ヶ月後、ゾミアが机の上にボーンと鎮座している光景が目に浮かぶ。

ミミズの音 - 2021年6月12日の日記

 

めっちゃすごいこと発見しちゃった!!

 

と言っても新しい発見をしたのではなく、むしろその道のファンにとってはおそらく基礎知識レベルのことを私が今ようやく知ったというだけの話なんですが、とにかく私にとっては大発見だったので書きます。

 

以前もブログで書いたかもしれないけど、パラッパラッパー2のステージ5や、ヒプノシスマイクT.D.D LEGENDの碧棺左馬刻パートにて高音でヘロヘロヘロ〜って鳴ってるシンセの音が私は大好きだ。いろんな音楽を聴くようになってそれがG-Funkと呼ばれるオールドスクール・ヒップホップのジャンルでよく使われる音であるということは分かったものの(例:You Know How We Do It - Ice Cube)、しかしG-Funkミュージシャンの間で広く使われているということはたぶんG-Funkが生まれるより前の時代にその源流があるに違いない、と思い、そこから自力でオリジナルを探すことはできずにいた。「あのシンセの音は結局どこから来たんだろう」というモヤモヤを抱えたまま今日まで生きてきた。

それが、度重なる空虚なネットサーフィンの甲斐あって、とうとうあの音のオリジナルに出会うことができた!非常に簡潔にまとめられたこの記事のおかげで!

 

playatuner.com

 

スッキリーーーーーーーー!!!!!!

これミミズの音だったんだ。

 

 

数ヶ月前から犬が階段で足を滑らせてずっこけることが増えたので、階段を登りたそうにしてるときは抱っこして上まで連れて行くようにしてるのだが(降りるときも然り)、今朝起きて階段の上で首輪をつけようとしたら犬が体をのけぞらせた拍子に階段のほうへ落ちてしまい、のたうち回りながら1階まで止まることなく転がり落ちた。犬はちょっとビックリしたようだったけど全身触っても特に痛がる様子もなく、そのまま父と散歩に出かけた。完全に私の過失で犬を痛めつけてしまいすごくショックだったが、一応は元気そうで心底ホッとした。

 

 

午前中は絵を描いた。

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まだ途中!

 

 

午後から自由にピアノを弾いた。ほんの少しの時間だけでもいいからピアノを弾くことも日課に取り入れてみよう。絵を描くのが習慣化して、習慣というのは健康にいいとわかったから、色んなことを習慣にしていきたい。

 

 

 

スワイプ殴る - 2021年6月11日の日記

 

昨日の夜寝る前にSurface購入を検討して製品ページを眺めてたら、朝起きると家にSurfaceが届いている夢を見た。

 

今日の絵です。

 

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午前中に絵を描くのが日課として身体に染みついてきた。

良い絵を描こうとか誰それのイラストみたいに…とか余計なことは考えずに、今自分が気持ちいいと感じることだけに集中して手を動かしたら勝手にできてた!昨日会ったこのネコちゃんのことを本当に好きな気持ちが絵に表れてる。なかなか良い絵でしょ。でも、もっと先にいけると思う。

気持ちいいことだけに集中すると自然と描きたいものが見えてくるのがよくわかった。「何を描こうかな」と考える必要はない。ただ心の目を内側に向けることだけが重要で、それ以上に重要なことは何もない。

絵、楽しい!

 

 

午後から1時間ほど自由にピアノを弾いた。これも「何を弾こうかな」とは考えず、てきとーに弾いた音から連想ゲームで自分が気持ちいいことだけに集中して好きに弾いたら勝手に手が動いた。絵と同じだった。

 

ピアノ弾いたあと、午後は読書をすることにしているので、なんか本でも読もうとおもって家の本棚で見つけた徒然草の現代語訳を手にとってみた。そしたら「つれづれなるままに………」でお馴染みの序段を読んだだけで自分でもびっくりするほど感動してしまい、しばらく本を閉じて感慨に耽った。ほんと感動したので以下、引用します。

 

 やり場もない所在なさに耐えて、日暮し硯に向かって、心に映っては消えるとりとめないことを、脈絡もなく書きつけていると、いつか私の心は無気味にももの狂おしい気分に満たされる。(山崎正和徒然草方丈記』2001年、学研M文庫)

 

最後のフレーズ、原文だと「あやしうこそものぐるほしけれ」の部分、これは潜在意識的「気持ちいいこと」そのものじゃないか!筋道立てて考えようとしたりせず、心に浮かんだ「気持ちいいこと」をそのまま書くという(身体的な)行為によって顕在意識と潜在意識が混ざり合ってゾーンに入っていく現象の記録だ、これは。こんなに必要十分で感動的な文章を国語の時間にボケッと聞き流していたのがもったいないし、国語の先生ももっとこの素晴らしさを溢れんばかりのパッションで生徒に伝えてほしかった。

あまりにも感動したので序段以外は読まなくてもいい気がして、迷ったけど、でもその先も読んでみることにした。まだ途中だけど、各段の内容は割と「ふーん」ってことが書いてある(今のところは)。でもこの「ふーん」をつれづれなるままに書くうちにあやしうこそものぐるほしくなるんだよ、ということを序段で示しているおかげで、「ふーん」がただの「ふーん」に留まらない、留めさせてくれない魅力を放っている。

これは私の日記にも同じことが言える。日記という一応のとっかかりを頼りに今考えてることをワーッと書き殴って(スマホで入力してるので、実際には“スワイプ殴って”)いると、なんか楽しくなってくる。ハイになって目がギンギラギンに冴えてくる。

 

夕方、ボ・ガンボスの『宇宙サウンド』という映像作品を見た。もともとはVHSで出てたけど後にDVD化された。ボ・ガンボスがサイケなステージでサイケな衣装着てぶっ飛んだ曲を演奏しててんやわんやになる、ライブ映像なのかどうかもよく分かんないやつ。今までに見た映像の中で一番テリヤキヨーコみたいだった。

 

youtu.be

 

夕食時に父が学生時代のどんとの面白い話を聞かせてくれて、あまりに面白くて大笑いした。面白い人の話を聞くのは楽しいなと思った。