トビラノのブログ

毎日エッセイを書いています

霊魂(アニマ)が宿る

ブログ開設してから初めて1週間以上休んだ。

この1週間はDTMに精を出していて、反動でブログ書くのがどうでもよくなってしまいました。無理して何かを継続するより今一番やりたいことをやるのが一番大事。

 

soundcloud.com

 

習作です。歌詞書くの難しい。

 

 

今週の主な出来事は、あんスタ(あんさんぶるスターズ!!Music)熱が復活してしまったこと!直近のイベント曲でかつての最推し・巴日和がスポットライトを浴びて歌うのを見たら我慢できなくなった。

 

youtu.be

 

あんスタのMVの完成度は凄まじい。最近だとムーンライト・ディスコ冒頭のソロで壁に移る影とか、Mystic Fragranceの1番サビまでワンカットで繋ぐカメラワークとか、指先のアリアドネのステージセットとか、もはや「バーチャルアイドルをできる限りリアルに」という次元を超えて「このアイドルをより良く魅せるには」のベクトルで作られているように感じる。ジャニーズなど3次元の(あんスタも3次元だけど……「人間界の」?)との違いが分からない。

あと、たぶんだけど以前より振り付け自体がテクニカルになって、それに合わせてアイドル達もダンスが上手くなっている気がする。

 

あんスタに再びハマって、自分があんスタのアイドル達の存在を心から信じていることに気づいてかなり驚いた。作り物だと分かってはいるつもりだけど、同時に「そうは言っても"いる"んでしょ?」とも思っている。最初は49人全員同じ顔に見えてたのに。虚構も信じ続けたら真実になるんだなあ……。こういうのを霊魂(アニマ)が宿ると言うんだろうか。

 

うんこを漏らす

 犬がリビングで下痢便を漏らした。
 アマゾン先住民の文明化について父親と話していたときだった。部屋をぐるぐる歩き回っていた犬が突然うんこポーズになり、カバーする暇もなくほとんど液体に近い下痢便をぶりぶりした。便の強烈なニオイが部屋を満たす。最近ドッグフードの代わりに「おいもスティック」をよく食べていたからか、甘いようなクサいような独特のニオイがする。急いで犬を避難させようとしたが、犬はうんこポーズで力んだおかげで腰を抜かし、フローリングの床をうまく歩くことができず下痢便の上をのたうち回って移動した。
 父と私は「あーあ」と顔を見合わせて失笑した。しかし犬を責めても仕方ないのでさっさと切り替えて掃除に取り掛かる。父は床の水拭き。私はカーペットの水洗いと、犬を濡れタオルで拭く。いくら下痢便の上をのたうち回った犬でも拭けば綺麗になるし、床には消臭スプレーを吹いておけばニオイもすぐ気にならなくなる。うんこなんてそんなもん。それより犬の便意に気づいてやれなくて申し訳なかった。
 私も小さいときは犬のうんこが手についただけで大騒ぎしていたが、介護の仕事で日常的に人の排泄介助をするようになってからはあまり動じなくなった。排便を我慢し続けると漏らしてしまうのは生き物として当たり前。汚ければ洗えばいい。それだけのことだ。
 しばらくすると犬はスッキリして眠った。

 唐突に、奥田民生『カイモクブギー』の一節を思い出す。
「あたりまえみたいな顔してろ/でないと今をのりきれないぞ」
 笠置シズ子『買物ブギー』を捩った曲名が楽しい、10年以上経っても色褪せない名曲だ。民生は決してうんこのことを歌ったわけではないが、あたりまえみたいな顔してろ、というメッセージはうんこについても共通して言えることだと思う。うんこは臭くて汚い、うんこを漏らすのは恥ずかしい、と言ってばかりでは解決しないことがある。

 もう一つ思い出した。何年か前に友人らと語彙大富豪という遊びをしたときのこと。語彙大富豪は各々が適当な言葉を書いたカードを手札に持ち、前の人よりも「強い言葉」を出していくゲームで、強さは都度全員で審議する。たとえば「弓矢」と「銃」では「銃」が勝ち、「銃」と「美少女」では「美少女」が勝つ(レオンはマチルダを殺せない)……というように、強さは恣意的に決まる。
 友人とこの遊びをしたとき私は「あの日交わした約束」か何かのカードの上に、ウケ狙いで「尿意」を出した。10年越しの再開の約束があったとしても排泄欲には勝てないし、おしっこを漏らした状態では人に会いに行けないだろうと弁を振るった(便だけに)。その場には私を今の職場に紹介してくれた先輩もいて、先輩が「おしっこを漏らしてでも果たしたい約束なのではないか」と反論していたのを覚えている。思えばあのとき私はおしっこを漏らすのは汚いことだと面白がっていたが、先輩は漏らすことに対して「あたりまえみたいな顔」をしていたのだった。今同じゲームをしたら私も「あの日交わした約束」派に立つかもしれない。審議の結果「尿意」が勝ったかどうかは忘れてしまった。

時間は川の流れのように

 午前6時、朝日が眩しくて目覚める。ミックスジュースとパンを食べて少し本を読む。シャワーを浴びる。描きかけの絵を仕上げる。冷房をつけなくても風がそよいで涼しい。いい気持ち。
 朝は時間が長い。たとえば同じ1時間でも、朝起きてからの1時間と夜寝る前の1時間では朝の1時間の方が「長い」。夜型の人は夜の1時間の方が長いかもしれない。いずれにせよ、1日の中で朝と夜では明らかに時間の進み方が違っている。朝と昼も違うし、昼と夕方、夕方と夜も少しずつ違う。時間は常に一定に流れてはいない。川の流れのように速度や温度が刻々と変化する、そういう時間の中に生きている。

 時間の流れは集団が決める。ある人が「時間は客観的・科学的に一定である」と信じるのは、その人が属する集団にとってはその方が都合がよいから。たまたま一つの(とてつもなく巨大な)集団の都合に適応しているだけだ。集団の数だけ、異なる時間の流れがある。……これは、つい先日読んだアマゾンの奥地に住む少数部族についての本に大いに影響を受けてます。

 たとえば普段は時計を気にせずに暮らして、たまに電車に乗って仕事に行く人には、二つの時間が流れている。深い森の湧き水のような時間と、蛇口から出しっぱなしの水みたいな時間。二つの時間は多重露光のようにかさなる。
 どちらか一方の時間だけを真剣に生きるよりも、複数の時間の流れを中途半端に行き来する方がずっと難しい。曖昧な時間。無数の時間の流れを感じることができれば、そのうち時間は消え、宇宙遊泳する気分で我を忘れて生きられるのではないか。

生活に誇りを

 夕飯を食べ終えて、夜の散歩に出かける。公園では、夏休みの終わりを控えた高校生たちが花火をしている。度が合っていない眼鏡越しの視界に、オレンジや赤の火花が円くぼやけて輝く。ここのところいつ来ても誰かが花火をやっているのを見かける。

 今年も花火をした。大学の友達(ほとんどは後輩)と、去年まで住んでいた学生街で。楽しかった。後輩が学生街にいるのは長くてもあと2年くらいだろう、いつまでも学生気分で気軽に集まって遊べるわけではない。みんな就職してばらばらの土地に引っ越していく。
 就職した同級生と遊ぶことはほとんどなくなった。もともと同級生より下級生のほうが仲が良かったのもあるが、学生時代はたまに会っていた同級生とももうほとんど連絡をとっていない。
 留年したり休学したり、会社を辞めたり、いろんな理由で4大卒の王道ルートを離れた同級生とはそこそこ縁がある。

 会社員になった同期や先輩とたまに話すと、いつの間にか仕事の愚痴を聞かされるハメになる。誇りを持って働いている、と楽しそうな顔を見せる人はいない。私のフリーター生活を、気楽さを羨ましがる人もいる。
 そういう人たちに「嫌なら会社辞めれば?」と言ってはいけないのを私は知っている。というか何回か言ったことはあるのだけれど、言ったところで何かが良い方向に進むことはないので、やがて言わなくなった。私の知り合いのほとんどは、その気になれば実家に帰ることもできる環境に育っている。だから本気でそうしたいなら会社を辞めて実家に戻ればいい。でも「嫌なら会社を辞めたらいい」と言われて「じゃあ辞めます」と言える人ならそもそもそんな会社で長いこと働いていないはずだ。私にはわからない理屈で、彼らは会社を辞めたいと言いながら実は辞めたくないのだ。

 自分の生活費を自分で稼いでいて、偉い。偉いんだからそのことに誇りを持てばいいのにと思う。
 私は甘ちゃんだ。今の生活を申し訳なく思ってはいないけど、誇りを持ってもいない。親元を離れて自力でサバイブしていないからだ。
 甘ちゃんでも生きていていいと思っているが、同時に、このままずっと甘ちゃんではいけないとも思っている。その二つは私の中で遠く遠く離れたところにあって、私を引き裂こうとする。

リセット癖はあるが…

 リセット癖がある。
 何年も続けた日記やアイデアノート、大事にしていた人形、写真が、ある日突然なんの価値もなくなってしまう。昨日まで大切にしていた宝物がむしろ邪魔なものに感じられ、「要らないから捨てよう」とあっさり捨ててしまう。ゲームをリセットするように。そして捨てたことを後悔することはない、つまり、一度見失った価値は二度とよみがえらない。
 価値を見失ったゆえに捨てることは、「捨てよう」と思っている時の私にとっては完全に正しい・理性的な判断だから、それを理性の力で抑えることができない。Google検索で「リセット癖」と入力するとサジェストに「メンヘラ」と出るが、自分でコントロールしたくてもできない状態はまさしく病的。
 LINEアカウントを消したくなったりブログを閉鎖したくなったり、さっきからリセット衝動の予兆が現れ始めている。LINEを消してもブログを閉鎖しても究極的に困ることはないからいいけど、それより忘れていたリセット衝動の感覚を思い出すのが怖い。今わたしが大事にしていると自分で思っているものを、将来のわたしはあっさりゴミ箱にポイするかもしれない。そのきっかけを予測できなくて、でもリセット癖があることだけは確かで、自分の言動になんの責任も持てない。

 今日なんとなくリセット癖の影が見え隠れしているのは、昨日の夜あまり眠れなかったからだ。
 身体が疲れていると頭も疲れて、よくないことを考えてしまう。
 敬愛する坂口恭平先生の言葉だが、人は気分がいいときには楽しい記憶を思い出し、鬱のときには悲しい記憶を思い出す。つまり現在の自分のあり方によって過去の自分のあり方は変わる。過去の行いを理由に、自分は性格がこうだから言動に責任を持っちゃいけないんだ、と決めつけるのは単に現在の自分に何か問題があるからで、事実でもなんでもない。
 こう書くとリセット癖なんてどうにでもなる気がしてきた。

本当の自分?

 自分とは何か?という問いについて。

 たとえばお酒を飲んだときに普段言わないようなことを言う・しないことをする人について、それが本当の自分だと見做されることがあるが、それは間違っている。シラフの状態では本性を隠しているが酒を飲むと本性が現れる、のではなく、酒を飲んで意識が緩んだ状態ではつい言ってしまう・やってしまうことでも、シラフのときは決して言わない・しない選択をしていると捉えるべきである。これは言う・するべきでないと判断しているのもまた本当の自分だ。

 人は核の部分に「本当の自分」を持っていて、それが状況に応じて色々な側面を見せている、のではない。その場その場で選んだ行動や発言そのものが自分、現在この場所にいる自分こそが本当の自分である。たとえ別の場所で矛盾する言動をしたとしても、片方の場に本当の自分、片方に偽の自分がいたのではなく、どちらも本当の自分で、その場に合わせてふさわしいと思う選択をしたのだ。つまり本当の自分は複数、いや無数に存在する。人は生まれてから死ぬまで、常に「本当の自分」であり続ける。

 しかしこのような考えは、自分とは何か?という問いの答えにはならないように思える。つまりこの問いは前提として、自分という存在の一貫性を求めている。もし自分に一貫性がなければ、自分が自分でなかった過去があったかもしれない、自分が自分でなくなる未来があるかもしれない、と不安になってしまうからだ。

 残念ながら、この不安から逃れられることは絶対にない!昨日の自分と今日の自分と明日の自分はどれも、生理的にも精神的にもほんの少しだけ別人である。積み重ねるとやがて自分は他人になる。自分とはテセウスの船だ。どうしても自分とは何かを知りたくて、本当の意味で「自分探しの旅」をするなら、自分の足跡を辿るほかない。古くなって捨てたかつての自分の欠片が見つかるだろう。それだけは疑いもなく自分である。

感覚を感覚として感じる

 文字を読むのは大変なことである。漢字の様な表意文字の読解は其れ一つで頭を使うし、ひらがなのようなひょうおんもじでかかれたぶんしょうであっても、意味を理解して読むにはやはり頭を使う。文字という特殊な視覚情報を意味のレベルまで持ってくるプロセスは毎回それなりの体力を要する。

 感覚を意味に変換するという作業はなにも文字、視覚に限ったことではない。たとえば音楽を聴きながら「ヒップホップとハウスとラウドロックをクロスオーバーさせた新しい曲調で、ここのメロディはビートルズの何々という曲の引用だな」などと考えることも感覚→意味変換にあたる。これもまた、見えない体力を消費する作業である。

 見えない体力にも限界がある。感覚→意味変換作業を休みなく続けているとだんだん変換の「質」が濁ってくる。変換の純度を保つためにも、時々は休憩をとらなければいけない。しかし現代の暮らしには見えない体力を回復させる場所が少ない。スマホは常に意味を求めるよう手招きしている。仕事や学業でPCを使い、休みの日にテレビ、ラジオ、アニメ。ブルーライト漬けの日々の中、癒しを求めて紙の本を読む人もいるが読書だって体力を使う。

 文字を文字としてではなく、ただの線と線が重なった図として見るのは極めて困難である。文字を視界に捉えただけで、知らず知らずのうちに見えない体力を消費してしまう。感覚を感覚としてありのままに感じるより、意味に変換してしまう方がずっと簡単である。そのため、漫然と生きるだけでは感覚→意味変換回路がオーバーヒートする危険がある。意味が溢れる現代においてはなおさらだ。だからこそ感覚を感覚として感じる訓練をしなければならない。たとえば感覚→意味変換の「質」はどんな物差しでも測ることができない、まさに感覚的なものである。その感覚を意味に還元せず、ただ感じること。

 そのためには何もしないでぼーっとする時間が必要だ。