トビラノのブログ

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私なりのアンサー - 2021年6月14日の日記

 

昨日は過去イチの片頭痛に見舞われ、昼からずっと横になっていた。頭が痛すぎて泣くという未曾有の体験をした。おかげで日記を書くどころではなかった。光は眩しく、音は突き刺さるように痛く、思考することが苦痛だった。群発頭痛の痛みに耐え切れず衝動的に拳銃自殺したというどこかの外国人に思いを馳せた。

鎮痛剤飲んで一晩寝たらすっかり治りました。スマホを見れる、ご飯を食べられる、おしゃべりができる!この上なく幸せだ。

 

 

最近自分の音楽ルーツについて考えたときに、キャロル・キングは大学生になってから知ったにも関わらず小さい頃から聴き続けていたみたいに耳馴染みがよく、色んなミュージシャンを介して知らないうちにこういう(ブルー・アイド・ソウルというのか)音楽の空気を吸ってたんだなと思った。ピアノ弾き語りだし、私が大好きな要素が詰まっている。

 

キャロル・キングといえば必ず思い出すのが、去年死んだ後輩のことで、部活の旅行で泊まった温泉宿のロビーでTapestry流してみんなで「いいね〜」と言い合ったこととか、未だに残ってるLINEアカウントのLINE MUSICはキャロル・キングのYou've Got a Friendが設定されてるし、とにかくキャロル・キングを聴くと後輩を思い出さずにはいられない。後輩といっても学年が一つ違うだけで年は同じだけど、一切タメ口を聞くことなく先輩として慕ってくれていた。

 

 

ここからは、全部「個人の感想」なので、目くじら立てずに話半分で読んでほしいのですが。

彼が死にたがっていたとき、私もまた死にたがっていたし、彼がさらっと希死念慮を口にしたとき本気で向き合わずに的外れな否定の言葉しか口にできなかったのは私も同じことを考えていたからだった。彼が苦しんでいたことには色々な理由があったろうし、これは本当にただの私の独りよがりかもしれないということは強調したいが、彼は根底で「まとも」な人生を送れないことをずっと気に病んでいたように見えた。少なくとも私には。最後に飲み会で話したときも「自然の摂理」とか「自然淘汰」とか、言ってた。もちろん程度の違いはあるだろうけど、「まとも」でいられないことへの果てしない劣等感、私もごく最近まで持っていたから彼が生前に度々そういうことを口にしたときいつも「わかるわ〜」としか言えなかった。

彼が死んだとき何人かの友人は「仕方ない」とか「彼の選択は尊重する」とか言っていた。それも優しさなのかもしれないが、こと私にとっては彼の死を仕方ないと思ってしまうことは自分が死ぬことと全く同じだったから、自分が生きるために、彼が死なずに生きるにはどういう道があり得たかを想像しなければならなかった。まさにこの私が生きるために。

生きるために、「まとも」に生きなければならないというテーゼを破り棄てる必要があった。

 

『資本主義リアリズム』著者マーク・フィッシャーは、自身も鬱に苦しみながらそれでも抑鬱は個人のメンタルヘルスに留まる問題ではないと強く主張していた(その彼も自殺してしまった)。この悔しさは筆舌に尽くしがたいがやはり、自殺は社会問題であると、認めなければならない。

「留年するやつはダメ人間」「就職しないやつはダメ人間」「人に頼って生きるやつはダメ人間」「役に立たないやつはダメ人間」(=生きる価値がない)という無言の圧力を軽く受け流し、ふらふら好き勝手に、いろんな約束を破りながらわがままに生きること。かつて訳もなく縋り付いていた「まとも」のルートを外れたまま、今朗らかに生きていることが、彼に対する私なりのアンサーである。

 

 

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